SSブログ

合唱・一期一会 [合唱]

昨日は、岡山県連の合唱フェスを楽しんできた。
改めて合唱の原点がフェスにあると感じた。
若干形骸化の感があるのは、合唱の原点を忘れて彷徨っている人がいるからか?
この彷徨が、恍惚の人のものでなく、青春のものであるならばまだ希ありや?

そんなことを考えながら、改めて合唱は、正に“一期一会”だとつくづく思う。
昨日の出番の1つには55人が立ったが、再びこの時と同じメンバーで歌うことはもう再び
巡ってこないのではないか。演奏の後、健康の事でヒソヒソ話をしている人もいた。
同じようなメンバーでも増減がある。全く同じメンバーでも、既に時間は移り変わる。

千利休が言ったという“一期一会”もわかったようで分らない言葉である。
そこで思い出すのは亡父が書き残した『小堀遠州三代将軍に奉りし茶の湯の栞(しおり)』の
添え書きがある一幅の掛け軸である。“一期一会”解釈にそれを用いたい。以下に全文を示す。

“夫れ茶の湯の道とても外にはなく 君父に忠孝を尽し家々の業を怠らず 殊には旧友の交り
を失うことなかれ 春は霞、夏は青葉がくれのほととぎす、秋はいとゞさみしさまさる夕べの
空、冬は雪の曉、いづれも茶の湯の風情ぞかし
道具とても多からず少なからず珍らしき名物とても変わりたることもなくふるきとても
むかしは新らし ただ家久しく伝わりたる道具こそ名物ならめ 古きとても形いやしきは
用いず新しきとても形よろしきは捨つべからず 数多きをうらやまず少なきをいとはず
一品の道具なりとも幾度ももってはやしてこそ子孫までも伝ふる道もあるべけれ
一飯をすゝむるにも志を厚く 多味なりとも志うすき時は早瀬の鮎、水底の鯉とても味は
あるべからず
籬(まがき)の露山路の蔦かずら明暮れてこぬ人を松の葉風の釜のにえ音たゆることなかれ”

この文章は、1)人間関係及び自然風物、2)道具、3)志、4)常なる接待の姿勢、という
4部編成である。これを茶の湯の目的、技術・技巧に対する考え方、茶の湯に対する心構え、
そして、茶の湯と人生との一体化、と読み解いてみた。茶の湯に関するこの文章は、その行間に
人生の生き方そのものを説いている。道を究めるとは心を磨くこと。如何なものか。

コメント(0)  トラックバック(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

田園風景京都散歩’0906 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。