SSブログ

米国留学少女物語・E [物語]

捨松は、大正8年(1919)、当時大流行の悪性インフルエンザに感染。2月に逝去。
日露戦争の少し前に日本を訪れ、2,3週間東京に滞在した大学時代の友人が書いた捨松への
追悼文には、“来日中の忌憚のない意見交換における捨松の見方・考え方を賞賛し、社会を
良くする為に公の指導者となるべきだった。”と書いていたという。
捨松は、政府高官の妻として、日本社会における地位を確立したが、日本的な因習に縛られて
米国留学の成果を活かした彼女本来の能力を発揮できなかった。

捨松を中心に米国留学少女の生き様を追いながら、文明の衝突について考えた。
明治(1868)から第二次世界大戦終戦(1945)までの約80年間を1つの文明衝突の物語とし、
その起承転結を大雑把に考えると、起:明治維新(1868)~大日本帝国憲法発布(1889)、
承:~日露戦争講和(1904)、転:~金融恐慌(1927)、結:~第二次世界大戦終戦(1945)、

こういう流れの中で、捨松の生き様、漱石の講演での言葉を思い出すときに、文明の衝突が
人間の心の中に深く沈潜し、一般には最早、問題は解決されたかに見えたときこそ深刻なこと
がわかる。捨松は米国流の科学的・合理的な、そして助け合い分かち合う社会へと日本を導き
たかった。だが欲望のタガを緩められた人々は更なる豊かさに向かう。
そして日清・日露戦争で勝取った一等国によって満足することもなかった。
大正ロマン時代もまた大部分は偽りの開化であって漱石のいう内発的開化ではなかった。

余談になるが、第二次世界大戦終戦後の経過が、明治から大戦までと非常に似ていると思う。
それを起承転結であらわすと、起:日本国憲法発布(1946)~東京オリンピック開催(1964)、
承:~日本株価最高準バブル全盛(1985)、転:~世界金融恐慌(2008)、結:?
東京オリンピック開催は、日本の一等国復帰に等しい慶事として国民が熱狂した。
いわゆる「三丁目の夕日」時代の終焉である。近代的な電化製品や文化住宅が大量生産され
その後、世は総中流社会と勘違いするほどに未曾有の繁栄を誇った。
我々は、承:の段階でまたしても内発的開化を忘れて、ブレーキを踏まない電車に飛び乗った?
そして、転:の段階、すなわち“バブル全盛”を受けて、それを赤信号と受取っただろうか。
小泉改革で転進できるかと思ったが金融危機で消えかかっている。今こそ、さまざまな雑音に
惑わされないでうわ滑りではない内発的開化をすべき時だと思う。如何なものか <完>

コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

米国留学少女物語・6近況・’09/5 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。