SSブログ

米国留学少女物語・4 [物語]

山川捨松は明治16年(1883)結婚して大山捨松となる。明治10年(1877)生れの信子、
明治13年生れの芙蓉子、明治15年生れの留子という先妻の遺児・3人の母親になった。
捨松も明治17年長女、明治19年長男、明治21年第三子流産、明治22年次男を出産している。

明治18年(1885)~明治21年(1888) 鹿鳴館の時代 舞踏会 慈善バザーのホステス
 結局、井上馨外務卿による条約改正は失敗、鹿鳴館の終焉
明治21年6月~明治22年(1889)8月 アリスベーコン日本滞在
 この時期に津田梅子は、将来アリスと女性のための英語塾を作る決意を固め再び米国留学。

捨松は、功を焦って結婚した。舞踏会、慈善バザー、華族女学校設立準備委員などで活躍。
しかし、有名無実の上滑りな活動でしかなかった。
家族に恵まれたといえなくもない。それで良しとすべきかもしれない。
ただ、「不如帰」における世間の誤解などを割引いたとしても、先妻の長女・信子の離婚に、
捨松の洋風仕込みの影響を予想する事は、それ程おかしくはなかろう。
「不如帰」だけでなく、新聞の中傷記事などもある。当時、米国留学で女性初の学士の捨松は
世間から見れば、一種の奇妙な見世物的な好奇心の対象に過ぎなかったのではないか。

捨松が、懸命に努力することで、周りの人々を感化し文明開化を促進して行こうと思っても、
周りの人々は、捨松に感化されて、内発的開化をしようなどという殊勝な心掛けはなかった。
夏目漱石は、明治44年(1911)、8月、和歌山での講演「現代日本の開化」で、当時の状況を
“日本が置かれたる特殊の状況によって、我々の開化が機械的に変化を余儀なくされるために
ただ上皮を滑っていき、また滑るまいと踏ん張るために神経衰弱になるという言語道断の窮状
に陥った。”と分析し、日露戦争以後の一等国になったという高慢な声を批判して、
“神経衰弱にかからない程度に内発的開化をしていくべきだ”と述べている。

今思えば漱石は現代すなわち百年先も通用する程の見識を備えていた。しかし文明の衝突は
漱石や捨松のような個人の力だけでは避け得なかった。捨松は夫を介し日本との距離を保てた。
それに対して漱石は男故に、神経衰弱にかからない程度に日本との距離を保てず、命を削って
まで、内発的開化に打ち込んでしまったのではないか。如何なものか。

コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。