SSブログ

公論への道 [社会]

今日発売の “文芸春秋” ①「総理の座を目前になぜだ? 検察がつかんだ疑惑の核心とは
司法の正義か、政権交代か 小沢一郎の罪と罰」 という立花 隆/村山 治の対談記事と
②「子供の政治が国を滅ぼす 検事達のあの傲然たる表情は何を物語るのか」 中西輝政の記事
を読み、それぞれのご意見をご尤もと感じながら2つの記事の元になる思考構造を分析した。

どちらの記事も小沢一郎問題を題材にしている。①の記事(以下、「罪と罰」)”では、政治家、
検察、世間の三者におけるズレを検証しながら司法制度改革、政治資金改革そして政治家
自身の自己改革という観点から問題に迫ろうとしている。必ずしも成功してはいないが。
②の記事(以下、「子供の政治」)では、日本の民主政治に関する国民の「公論」という立場
で小沢問題を論じた。これは、著者自身が感じている日本(日本人)の民主政治というものが
西欧諸国等に比べて幼稚だという事を、事例を挙げて解説し、現代日本人の共同幻想の危険性
を警告している。

2つの記事には、重要な相違点がある。「罪と罰」では、現状の日本には個々の問題は有るが
それらの問題に取組みながら対応していくしかないという立場に立っている。     
一方「子供の政治」では、精神的な安全装置を回復させない限り第二次世界大戦的悲劇に襲わ
れる。精神的な安全装置を回復させるためには政治家、マスコミ、国民が精神、価値観の面で
深く成熟する必要があるという。 どちらが本当なのか? それを見分ける方法はあるのか?

私は、ここでボードリヤールの「消費社会の神話と構造」という本を思い出す。
消費社会を真正面に非難する事が世間の反感を買い陳腐なパロディとなって結局、消費社会は
更に強力になるという。 世間の求めているもの或いは考え(共同幻想)を、否定するような
言説は、結局、受け入れられず、それが本当でも、狼少年になってしまうと言うことだ。
今の若者達にどれほど、「文芸春秋」が読まれているかも問題である。 このような記事や
それにまつわる意見なども、すでに化石化した神話になっているかも知れない。

そのような観点からすると、「子供の政治」議論は、一部の悲観論者の賛同は得ることができ
ても、世間を巻き込むことは難しいように思う。まだ「罪と罰」の議論の方が入り込みやすい
のではないだろうか。 大衆受けを狙うのではなく、正に「公論(社会全体の議論)」へと
発展させられるような問題提起が必要なのではなかろうか。 如何なものか。

コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

花祭り散歩日本の現代思想 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。