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おくりびと・終章 [物語]

“死”が、人生の終着駅か、新たな門出の“門”なのか? いずれにしても、
一人の“死”は普通多くの人々にとって衝撃的な出来事である。 それを映画「おくりびと」は
納棺師という立場から、様々な死者との個の関係という視点で捉えた所が新鮮だった。 
一人の死者と、一人の納棺師との束の間の出会いを、まさに“一期一会”ともいうべき
奥床しさで描くところにポイントがある。

今日の「だんだん」で石橋(山口翔吾)が、「開業医のように総合的な医者になるか、専門の
病気だけを治す医者になるか迷っている」 と話すのに対して、忠(吉田栄作)は漁師として
の体験を踏まえ、「医者も患者に育てられるということもあるのではないか」と言っていた。
専門医でも総合的判断をしなければならぬ開業医でも、患者を人間として扱わねばならない。
専門医といっても人間としてではなく、ただ単に病人として扱ったのでは患者を傷つける。
例えば、高齢者の痴呆性を調べるためにお決まりの質問だけして、相手に対するきめ細かな
配慮をしないため患者を怒らせ、結果は正常なのに、高度の痴呆症と診断してしまう。
そういう専門医の多くは、患者を傷つけている事への医者としての反省がないという。
規則ずくめ、効率優先、コスト削減などで、人間性はどんどん失われてゆく。

映画「おくりびと」フィーバーの不可思議さを自らに問い続けている内に、小さい頃に聞いた
遠い昔の記憶が呼び覚まされた。 我が祖母・キセは、“泣ける芝居しか見に行かない”
という話だ。 人生の荒波を生きた小柄で腰も曲がった祖母が、お笑いや喜劇でなく
泣ける芝居を見たいということに奇異な感じをもったためだと思う。 
祖母の気持を推し量ると老後のぬるま湯のような生活に飽き足りなさを感じていたのだろう。
年老いて生身で厳しい現実に立ち向かう気力はなくなったが、せめて芝居で若かりし頃の
修羅場をなぞることの方が、生きる力になったのではなかろうか?

現代の青壮年は、日常的な場面だけでなく、修羅場も仮面舞踏会や狐と狸の化かし合いで、
人間的交わり、一期一会を得ることが難しい? だから映画「おくりびと」のような物語に
“人間的交わり”を味わい慰めにしているのだろう。 人間的交わり等「永遠の課題」として
映画で気分を切り替える。 それが現代的な生きる知恵か? 如何なものか。

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