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不機嫌 [希望]

午後から天気が崩れるとの予報もあり、つかぬ間の休みとて、午前中から散歩に出た。
DSC090129不機嫌.JPG帰宅後、山崎正和著「不機嫌の時代」(写真)を読んだ。 随分前に
借りていたが数日前に図書館で、この本が貸出期限切だと注意された
やっと見つけ出して何とか、借出した目的だけは達成した。

読もうと思ったキッカケはNHKテレビ番組「私の一冊、日本の100冊」
だった。推薦者は丸谷才一氏。 彼の話を聞いて、これは私の年来の
テーマに役に立つのではないかと読み出したが、解説がまわりくどい
ので途中で挫折していた。
確かに、近代日本人の問題点を解明する手掛かりになった。

掻い摘んでポイントだけ書くと、
近代日本の暗い私小説に共通する“不機嫌な感情”は、実存哲学の“不安”とも通低するものがある。 しかしそこには大きな違いもある。 西洋は自我の目覚めによって、自分の個別的存在に “不安”を抱いたが、過去と未来のハザマとしての現在という足場は堅固だった。 だが、日本においては現在そのものが存在感を薄めてしまった。 結局自我の足場はあいまいなままだということになる。 近代日本の私小説は、そういう状況に陥った近代日本が、自らの “不機嫌な感情” を
浄化する場所だった。 だが風潮に負けて 「私小説」 は廃れてしまった。 
その結果が、現代日本人の感情生活を蝕んでいる。 ということになる。

このような視点に立つと、漱石の“心”において、先生が、昔の友人に対する贖罪のために自殺してしまうということの意味が理解できる。 先生は明治時代一級の知識人だった。だから罪の意識が日常的存在と個別的存在(実存)に分裂を生じてしまい、自殺せざるを得なかったのである。 漱石は、このように近代日本の “不機嫌な感情” を浄化するシミュレーションを様々に試み、
自身のいう “内発的開化” を発展させて行こうとしたのだろう。
日常的存在と個別的存在(実存)とを統合することに、上下、優劣があるかもしれないが、
それは自分でしか出来ない “内発的開化” であると思う。 如何なものか。

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